国内外にコレクターも多く高値で取引されることの多い伊万里焼には、古伊万里焼という2つの種類があります。有田焼と並んで今も多くのファンがいる伊万里焼はどういった焼き物なのか、その歴史と違いについて詳しくご紹介します。

伊万里焼と有田焼はどんな関係?

日本で初めて陶器が作られた地として知られる有田ですが、有田と山一つはさんだ隣にある伊万里でも多くの陶器が作られました。豊臣秀吉の朝鮮出兵の折り、鍋島藩主(鍋島藩は肥前藩・佐賀藩と同じ。治めていたのが鍋島家であった)が連れ帰った朝鮮人陶工・李参平が初代金ヶ江三兵衛として陶器の製造法を伝えたことが始まりとされています。陶器作りに欠かせない良質な土が有田の地を中心とした広い地域にあったことから、多くの陶器が焼かれるようになります。当時、焼かれた磁器は伊万里港から海外や日本各地に輸出され、「伊万里焼」と港の名前で呼ばれました。つまりこの頃は有田焼ではなく一帯で作られていた磁器は全て伊万里焼として取引されていたのです。現在は地区が別々となっているため、その地で焼かれたものを有田焼、伊万里焼と区別しています。

古伊万里焼と伊万里焼の違いは?

古伊万里焼と伊万里焼の違いは、2つの説があります。

時代による違い

鍋島藩主鍋島直茂が連れて帰ったとされる陶工は、千人以上いたとされています。当時茶の湯などで人気の高かった陶器は中国からの輸入に頼っていたためです。その中の一人である李参平は、思うように作品が作れず旅に出て、有田の地で陶石に出会います。この発見が有田焼を大きく進化させたといわれています。この磁器の始まりから作られていた有田焼のことを古伊万里焼と呼ぶのが一般的です。その後鍋島藩が伊万里の窯をご禁制とし、幕府に献上する磁器を作らせたことで伊万里での磁器は独自の進化を遂げることになります。美術館や博物館では、有田焼が作られ始め、鍋島藩による規制が始まる前までに作られたものを古伊万里焼と区分しています。そのため、古伊万里焼には有田焼も含まれます。作られた土地が違うだけで、作風などは似通っており親戚のような関係といえます。

様式による違い

骨董品として珍重される金襴手様式をさして、古伊万里焼とする説もあります。当初有田焼は中国の陶器をまねて作っていたため、白い地に青の文様や模様が描かれていました。作らせていた鍋島藩の名を取り、鍋島焼とも呼ばれます。さらに進化し、青だけでなく赤や黄色、緑といった色を使った磁器は色鍋島と呼ばれます。そんな中、有田焼・伊万里焼が海外の芸術作品にも大きな影響を与えることになります。それが今に伝わる柿右衛門や金襴手様式です。金襴手様式は、色絵の上に金を施し豪華な模様を描いたものをいいます。一色ごとに焼き付ける必要があり、手間がかかるため製造が困難とされています。ヨーロッパで伊万里焼の名が広く知られるようになったことに加え、宮殿の装飾にも使われました。そのため入手が困難であり、高値で取引されています。骨董品としては古伊万里焼はこの金襴手様式のみをいい、他は伊万里焼と区分されています。

古伊万里焼や伊万里焼は模倣品も多い

明治時代に海外に向けた輸出品として、有田焼や伊万里焼が注目され、多く製造されるようになります。この頃には海路も陸路も整備されていたため、有田で焼かれる磁器は有田焼、伊万里で焼かれる磁器は伊万里焼とそれぞれ呼ばれるようになりました。中でも柿右衛門は色鍋島と同じ色を使っていますが、模様などのデザインが異なります。ただ、海外でも人気が高いことから、柿右衛門は模倣品が多く作られています。本物は柿右衛門窯で製造されたものだけであることに注意が必要です。