骨董品として高値で取引されることの多い有田焼。外国でも高い評価を受けており、物によっては海外のコレクターが購入することもあるなど、日本内外で人気のある陶器です。そこで有田焼の歴史と共に、どういった作品があるのかを詳しくご紹介します。

有田焼の始まり

日本では磁器は作られておらず、中国からの輸入だけしかありませんでした。豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役(1592年~1598年)で、肥前の藩主である鍋島直茂が凱旋の際に陶工を連れ帰り、帰化した彼らによって伝えられた技術により日本で初めて陶器が作られるようになったのです。有田の地で採掘される陶石は強度があり、他の土を混ぜなくても磁器が作れるということから、有田では盛んに磁器が焼かれるようになりました。

有田焼と伊万里焼は同じ物?違う物?

有田焼と伊万里焼は、それぞれ製造された場所の名前が付けられています。元々有田で作られていた有田焼ですが、同じ肥前の国のあちこちで窯元がありその一つに伊万里がありました。そしてこの伊万里の港から磁器を輸出していました。また有田から陸路でも磁器は全国に運ばれており、当時は有田・伊万里を含め「肥前焼」という名で取引がされていたのです。ただ、伊万里の港から輸出されていたものは、有田焼や伊万里焼を含め、「伊万里焼」と呼ばれていました。その後、窯に使う木の伐採で土地が荒れたことから鍋島藩は窯元を統合し、伊万里の窯をお抱え窯としました。その後、伊万里の窯で焼かれた磁器はご禁制となったため、一般に流通した有田焼とはここからその作風が分かれていくことになったのです。

有田焼の変化

有田焼は当初は中国で作られていたものを参考に作られていました。白地に藍色で図柄を描くもので、まだこの頃は先に図柄を描いてから釉薬をかけて焼く製法が一般的でした。その後、1640年代に、中国から新たな製法として、焼成のあとに上絵付けを行う色絵磁器が伝えられ、この後柿右衛門様式に発展していきます。柿右衛門の有田焼は現在も高く評価されている有田焼で、また窯で分業して制作をするという新たな取り組みがされたきっかけともなりました。同時に大量生産が試みられるようになり、簡略化した文様を描き込む茶碗類が多く作られ、安価な有田焼が製造されるようになります。ただ、日本だけでなく海外でも人気を集めた有田焼は、江戸時代の貿易規制などの影響もあり、国内のみの生産へと縮小せざるを得なくなります。その後明治時代に外貨を獲得するために有田焼に注目が集まり、海外にも多くの有田焼が輸出されるようになったのです。

古いものは大皿が多く後年は蕎麦猪口や碗など多様化する

有田焼は絵付けなどからも年代が判別できますが、江戸時代中期以降は国内向けの製品へと変化すると同時に、大皿だけでなく実際の生活でも使用されることが増え、多種多様な形の磁器が作られていくようになります。そういった形からでも骨董品の価値が判別可能です。

有田焼は手書きのものの方が価値が高い

有田焼は広く多くの人に手に取られることが多い磁器であることから、伝統的な技術を用いる手書きと、安価に大量生産することを目的とした転写の技術が用いられたものとがあります。また手書きと転写を両方用いて作られたものもあり、骨董品としての価値に違いがあることに注意が必要です。この2つの違いは、実際に実物を持った際の手触りではっきりと判別することができます。骨董品として人気の高い柿右衛門は手書きで製造されており、作られた年代によっても買取の価格には大きな差があります。制作の手法なども見比べるなどして知識として知っておくといいでしょう。